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研究 | 哲学| | 反省学 科学技術哲学 プログラム科学論 生活思想 |
ストラスブール大学 |
反省学 |
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直感のない哲学は根拠を失ったことばに過ぎない。生活世界に根拠を持たない思想は心の通じない主張に過ぎない。 しかし、生活世界では、ことばは「いま、ここに」という限定から飛び立つことは出来ない。生活世界で見つける素晴らしいことばは、視界の届く所に、足の赴くところにまで届く。しかし、見知らぬ人々と遠い世界までは届かない。ただそのことばは生き生きと現在の世界に飛び交うのである。 生活で語られることばは、生きた人間の温もりと脈動が伝わる。「今、ここに生きる」脈動から、新しい生命が生み出され、新しい関係が創られ、新しい感性が生まれる。生活で語られることばは、今、すぐそこにある明日に向って語られる。生活で語られることばは、そこ、すぐそこにいる人々に向って語られる。 生活はそれゆえにその前向きの生命を支える固定概念、共同体の常識と欲望を肯定するための立場、身近な利益集団の立場、個人が所属する経営体の立場、それらの利害を前提にして成立する。その生活の利害は、今、ここに生きることを保障するための利害である。それは近未来に対して共同体の観念(常識)や制度を自己保存するための利害である。 しかし、生活の利害は、国家や社会の未来を保障するとは限らないのである。生活の利害のままに人々の行動が流されては国家も社会も成立しない。生活の将来は保障されない。その自然発生的な生活運動の渦巻きを、ある社会の形態に方向づける必要があった。 思想はそのために必要とされた。思想によって、個々の生活空間の利害を超えて、ある民族や国家と呼ばれる共同体の利害に立つことが出来たのである。思想は、生活世界で語られた素晴らしいことばを明日よりさらに未来に、近よりさらに遠い社会にまで届けようとする。思想はなき生活は、未来のない生活である。生活活動を思想活動にまで高めることによって、現在は未来に続く時間を獲得できるのである。 しかし、生活のない思想は人の香りを失ったことばである。思想のない哲学は、困難に立ち向かう力と人々の共存を願う愛を失ったことばである。哲学なき思想は、時として我々を危険に導く。 独裁政治、国家社会主義、国粋主義、原理主義、愛国心、民族主義、多くの思想は生まれ、激しく燃え盛り、どれだけ多くの人々を戦火の犠牲にしただろうか。哲学は、思想に生活世界の香りを届け、人の悲しみと温もりを与える。哲学を失った思想は生活世界の直感を失ったことばに過ぎない。 そこで哲学は、同時代的精神の主張、社会思想として語られたことばを未来と過去の時間を越えて、文化と社会の国境を越えて、人間という抽象的空間に届けようとする。何故なら、哲学のない思想は、同時代性に固守した偏見を捨て去ることも、省みることもできないからである。そして、時として、それらの危険性は、生活世界を破壊する。哲学の役割は、同時代的精神をそれらの精神の歴史(思想史や哲学史)の中で、見つめさせることである。 哲学は、同時代的精神活動、思想に生活世界の直感を所有することを要求する。その哲学の要求によって、支配者の時代的偏見や多数者の社会的固定概念を自然発生的に所有する時代的精神、思想を点検批判し、その思想によって多くの人々が危険に晒されることを防ごうとするのである。 哲学は、無条件な楽観論、肯定的思考を点検批判し、ある時は否定し、それらの思想の前提条件を懐疑し、それらの時代性や文化性に付随する共同主観的世界の様相を反省的に理解させようと努める。しかし、哲学は思想、時代精神を介して生活世界に入り込むことはできない。何故なら、哲学は否定の学であり、肯定のベクトルで形成される生活運動にそのまま参加することは困難である。 前向きに生命と欲望をもって成り立つ生活世界の力は、時代性と文化性の時間的空間的方向性を与える思想、時代精神によって方向付けられる。哲学はその逞しさを持っていない。哲学が生活運動と結びつくことを望むとき、懐疑や点検の学としての哲学の本来のあり方を中止し、哲学の思惟から生まれる、つまり「否定の否定」によって帰結された世界を思想運動に渡さなければならないのである。 哲学は、その時、生活世界の再生、再生産、新たな生活思想の起爆作用を導くのである。 哲学は、その根拠として、生活理念の思想や生活実践の科学を必要とする。 哲学が、生きる場の哲学の成立条件として、生活運動から思想運動への課題を要求している。 つまり、哲学はつねに反哲学を必要とし、反哲学を哲学に内蔵することで、哲学はその存在理由を見つけるのである。 そこに哲学と呼ばれる特殊な学問が成立する。我々は、終わりなき生の模索と終わりなき理念の追求を限りある時間と空間で試みる。 哲学は、その個人の限界とそれらを繋ぎとめる人間の偉大さを教える。 そして哲学は、その具体的人間生活に溶け込みながら、それを導いた哲学を否定し、反哲学に変貌し、解体し、また新たな哲学を求め続けるのである。 |
■ 発表論文 | |
「現代科学技術論批判の方法論としての反省学試論(1)」 『金蘭短期大学研究誌』、第28号、1997.12、pp1-33 |
哲学の意味を科学や生活に対する反省作業であると位置づけ、科学技術文明時代の哲学のあり方を問いかける。科学や生活のない哲学が無意味であり、また哲学のない科学や生活は暴力となる。哲学が反省学である以上、哲学は反哲学と相補的な存在関係にある。 |
「反省学的人間社会学の可能性とその基礎理論」1999年度科学基礎論学会、大阪大学、1999.5 | 巨大な人工物環境に取り組まれた現代の生活環境の対自化作業は科学技術文明への批判学・科学哲学の課題である。その課題に一つに反省機能を持つシステム概念の確立がある。機能主義システム論からルーマンの自己準拠的システム論への科学理論的展開の背景を問題にしながら、認知科学研究(知識デザイン学)での双参照モデルの理論を紹介する。工学分野での反省機能はプログラムの修正機能(フィードバック)を意味する。その機能を取り付けることで格段に制御能力が向上する。人間社会学での反省システムとは、認識主体が認識対象の中で確立していることを意味する。つまり、現象学的方法、対自化と即自化過程を繰り返し行う方法を要求される。生産過程である物象化(外化)と反省過程である自我化(内化)の限りない反復運動が反省学の論理であるが、科学活動と点検活動の相互展開構造を所有することが反省学的人間社会学の成立条件となる。反省学的方法論に立つ人間社会学は、この科学哲学の課題に答える方法論を上に成立し、それを否定しながら展開する学問ではないか。ルーマン以後のシステム論の科学性を問う。 配布資料 A4 4p |
■ ブログで掲載 | |
哲学的知の成立条件について | 2010年10月 |
哲学の存在意義 | 2010年9月 |
共同主観的合意行為・高速道路の運転風景 | 2010年9月 |
教育としての哲学の課題 | 2010年9月 |
哲学的探求の宿命 | 2010年8月 |
現代哲学の意義を問う | 2010年8月 |
理性と情念の両方を持つ人間の姿 パスカルから | 2010年5月 |
哲学的、科学的、生活技術的な知の相互関係 | 2009年3月 |
生活世界の哲学 | 2008年1月 |
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